第3話

「じんじろげ」のヒットで始まった1961年、九とパラキンで「悲しき60才」の夢をもう一度、と二匹目のどじょうで中近東メロディーの「砂漠の恋の物語」に青島さんと挑戦。もろにズッコケたが、又々B面の「GIブルース」に助けられました。
3月には九パラキン初のオリジナル作品が青島幸男の作詞・作曲で出来上がってきます。 「九ちゃんのズンタッタ」です。

数ヶ月前には作詞なんか出来ないと言っていた人が「ねぇ こんなの作ったんだけど、どう?」と作曲までやってくるとは・・・・
森山も前作と似たような「パイのパイのパイ」「ズビズビズー」とタイトルにインパクトのある企画が続き、カップリングで「ボーイハント」の競作にも参加。九パラキンは星加ルミ子の初訳詩で「カレンダー・ガール」もヒット。
5月には、当時はウエスタン、今ではカントリーと呼ばれる中の紅一点斉藤チヤ子のデビューです。彼女はビデオホールで行われていたウエスタン・カーニバルのコンテストで入賞、ビクターでデビューするはずでしたが、マネージャーの堀威夫さんに猛アタック。東芝から「なみだのラブレター」で発売できることになりました。
7月には九パラキンで「月夜に歩けば」、森山で「ポケット・トランジスター」をリリース。ドドンパブームのあと新しいリズムを探していた業界が飛びついたのが「スクスク」各社で競作。パラキン、ザ・ピーナッツ、丘優子etc。フジテレビのザ・ヒットパレードのスマイリー小原の低音の掛け声が懐かしい。みんなで頑張ったわりにあまりヒットしなかった。
パラキンは初めて九坊抜きで録音。カップリングの「アパッチ」は増田多夢のソロ。
斉藤チヤ子の2弾目はニール・セダカの「小さな悪魔」飯田久彦と競作に(飯田さんの勝ち。)当時のB面は他の歌手とのカップリングにすることがありこの盤は富永ユキと。
盆踊りが各地で大流行でしたが、いつまでも「東京音頭」でも無かろうと、青島幸男作詞・ダニー飯田作曲で「九ちゃん音頭」を企画、九坊のお姉さんに踊りの振り付けをしてもらい大ヒット、松竹で同名の映画まで出来ました。

映画「九ちゃん音頭」より

初アルバムを2月に25cm盤モノラルで「九ちゃんとパラキンのヒットパレード」。それまでに発売したシングル4枚の8曲をまとめたベスト盤でしたがまだLPが珍しい時代で結構売れました。

(草野浩二=元東芝レコード・ディレクター 「月刊てりとりぃ」2012年9月22日号に掲載)
※著者及び「月刊てりとりぃ」より許諾をいただいて転載しております。