第5話

ジョニー・ディアフィールドって歌手おぼえてますか?「悲しき少年兵」という曲でキャピトル・レコードから発売されましたが、何故かヒットしたのは日本だけという作品です。

日本で売れているとの話で1961年8月急遣来日。2ケ月にわたって『ザ・ヒット・バレード』などの音楽番狙に出まくりました。ついでに日本語盤も作ろうとの話がまとまり、カバーなら草野だろうとの会社命令で渡舟人の詞で10月に発売しましたが、あまり売れませんでした。なにしろこの頃はタイトルに「悲しき〜」とつければ売れると信じられていたのと、洋盤よりカバーのほうが売れていた時代なので(笑)。

61年4月に大映の『悲しき60才』という映画の中で歌われる曲のアルバムをマナセプロ・タレント総出演で作ることになり、そこで初めて、ジェリー藤尾、渡辺トモコもアルバムデビューという形で制作することになります。アルバムのサプタイトルに(ジェリーを囲むユカイな仲聞)とつけてジェリーのデビューを飾りました。

九と加代子は既発の曲でジェリーは「悲しきインディアン」「ダニー・ボーイ」「聖者が街にやって来る」の3曲。トモコは「クレメンタイン」の新録で、曲と曲の間におしゃべりを入れるなどの細工をしました。アルバム制作も初期の頃は、何か面白い事をやってみようと色々トライしたものです。

61年夏頃からジャズ喫茶に人気の出ているグループが出てきました。それが、長沢純、高橋元太郎、高倉一志のスリー、ファンキーズでした。当時男性グループと言うとダーク・ダックス、デューク・エイセスのようなコーラス・グループが存在していましたが、今でいうジャニーズ系のようなグループは彼らがはじめてでしょう。

デビューにあたって困ったことは、ジャズ喫茶でキャーキャー言われて歌っているのは良いのですが、いざ録音となると「弱ったなァ」。なにせハモらない、ユニゾンがハモって聞こえるという状況(現在のような機材もまだ発達していない頃なので)。苦肉の策でその頃出始めたソノシートで東芝から出ていた東芝フォノプック〔権利の関係でソノシートの称号は使えなかった)でグラビアや記事を多く載せムック本のようなかたちで発売しました。その後彼の人気が上がり始めるとレコード店からレコードで出してほしいとの声が高くなり、61年1月に25cmのアルバム『スリー・ファンキーズ・ヒットパレード』として発売することになりました。

(草野浩二=元東芝レコード・ディレクター 「月刊てりとりぃ」2012年11月24日号に掲載)
※著者及び「月刊てりとりぃ」より許諾をいただいて転載しております。