第1話

1960年4月に私は東京芝浦電気レコード事業部へ入社しました。
「コロムビア」「ビクター」「キング」「テイチク」「ポリドール」の5社に続く6番目のレコード会社で、当時のレコード会社で、当時のレコード会社は歌手・作詞家・作曲家がすべて専属制で他社の作家に楽曲の依頼など出来ない相談でした。入社して他のディレクターのアシスタントをしていると3か月目に「お前も何か作れ!」との命令です。良い作家を使えないのなら外国曲のカバーをやろうと考えました。すでに東芝では山下敬二郎の「ダイアナ」がヒットしていたし、森山加代子は「月影のナポリ」で60年6月にデビューしたばかりでした。

その上、実家は楽譜出版業で兄貴の草野昌一は音楽雑誌「ミュージック・ライフ」の編集長だったので、洋楽の各社のテスト盤は編集部に行けば聴く事ができました。
最初に手掛けることになったのが「ダニー飯田とパラダイス・キング」。メインボーカル「坂本九」の東芝デビュー盤です。聴きまくった各社のテスト盤の中から選んだ曲が「ムスターファ」でした。さて訳詩を「ザヒットパレード」のプロデューサーの「すぎやまこういち」さんに相談したら、当時の人気番組「おとなの漫画」を書いていた「青島幸男」さんを紹介されたのですが、青島さんは「俺は詩人じゃないから書けない」と断られたのです。「僕も初めてのレコード作りなので初めて同士でお願いします」など強引にお願いして引き受けてもらいました。詩の意味はまったくわからずに当時のザ・ピーナッツの「悲しき16才」をもじって「悲しき六十才」とタイトルをつけて青島さんがオリジナルとして物語を構成したのです。

後にクレイジー・キャッツであれほど作品を書いた作詞家のデビューでした。
おかげで「悲しき六十才」は大ヒットしテレビで毎日のように流れていました。うれしかったのは商店街のパチンコ店ガンガン流れていたこと。まだ有線放送もない時代で、流すためにはレコードを買ってかけてくれていたのです。初仕事でヒットはでたものの新入社員なので、先輩方のアシスタントも続けながらカバーポップスの世界へとのめりこんで行きます。前任者の松田(十四郎)ディレクターから引き継いだ森山加代子も担当することになり 「月影のキューバ」から制作がはじまります。

(草野浩二=元東芝レコード・ディレクター 「月刊てりとりぃ」2012年7月28日号に掲載)
※著者及び「月刊てりとりぃ」より許諾をいただいて転載しております。